山路慎一 幼少期~レース界への道のり
1964年5月3日 千葉県野田市で産まれる。
小さい時は体が弱く毎月のように体調を崩しては母親に看病してもらっていた。
機械いじりが好きでラジオなどを分解しては元に戻す一人遊びをよくしていた大人しい男の
子だったと本人から聞いている。
そうかと思えばいたずらや木登りが好きで、妹相手にプロレス技をかけたりやんちゃな一面もあった。
その頭角を現したのが中学生時代・・・利根川沿いで育った山路は川沿いで友人達とバイクを乗り回しているとかでしょっちゅう母親が学校から呼び出される事に・・
スポーツ好きで陸上競技や野球ではピッチャーもしていて人気者でもあった。
高校生時代はまさにヤンキー 笑 ともかくやんちゃでツーリングクラブ活動(笑)を中心に仲間とワイワイしていた。←この頃少しずつスピードの世界に心魅かれる様になる。
18歳で免許を取り車の世界に・・ヤンキー時代を生き抜いてき
た山路慎一はこの頃愛車には竹やりが装着されていた。本人に聞いた話では竹やりにパンチパーマ、スラックス姿でサーキットにレースを見に行ったらしい・・
のちにここから「タケヤリ山路」と言う愛称の始まりが・・・
高校卒業後、SA22C サバンナRX-7で初めて筑波サーキットへ走りに。
お金も無く地元の板金屋さんにお世話になり汗びっしょりで頑張って走るも早いのは直線だけ・・走りの難しさの洗礼を受ける。
本屋で走りの本を読みあさり山路にとってサーキットは初めて行きたいと思った学校となった。
土建屋に勤めながらトラックや軽トラで紙コップに水を入れこぼさない様に練習していた。
ヒール&トゥ・カウンター・スーパーシフトなどなどを練習し筑波サーキットで行われた「COCKPIT館林」のレース形式の走行会に参加、車はやはりRX-7。
エントリーの仕方もレーシングカーと町乗りの車の違いも分からないころだった。
「COCKPIT館林」塩田和好氏「ガレージ横山」横山 茂氏の両社長に可愛がって頂いた時代・・借金も多くバイトバイトで寝る暇もない頃だった。
本格的にレース界に心奪われる1987年山路慎一23歳の頃・・レースをするにはお金がかかった。バイト→借金→バイト→借金と借金地獄の始まり。
箱車を数年経験しついにやってきたフォーミュラのチャンス!「フォーミュラミラージュ」戦。賞金が高かった為借金返済と自分の居場所の為にがむしゃらにのぞんだ。
この頃、自宅の敷地内に事務所をかまえレッカー業を始める・・もちろん自分のレースは毎回自分で車を運んでいた、山路慎一26歳の頃・・・
借金地獄ではあったがガレージ横山の横山茂氏ともぴったり波長も合い充実していた毎日を送り一流のレーシングドライバー・一流のメンテナンスチームとしての人生を共に夢見ていた年。この年、まさしくこれから二人の出発が決まった年・・シリーズ戦の直前にスポットで参戦したレース・・MINEサーキットへ先に移動していた横山氏の訃報が届く・・事故でかえらぬ人に・・。レース参戦を取り消そうと思った山路に横山氏の弟さんが参戦しろと熱望。ヘルメットの中を曇らせ勇気を振り絞り恩師を思い走ったMINEサーキット。
ここからが山路慎一がレース界に本気で挑んでいった原点だった。