生前の山路さんと最後にお会いしたのは2014年5月16日にご自宅にお伺いしたときでした。その時はまさか間もなく旅立たれるとは思いもしませんでしたので、月末に十勝へ行くという話や、夏には皆でバーベキューをしようといった、たわいの無い話しをして短い時間を過ごしました。唯一奥様に私のことをおっしゃった一言に、その時は唯々恐縮しましたが今では私にとって山路さんの遺言であり、競技団のメンバーとして活動する上で大きな支えとなっています。
ところで山路さんと私は同じ1964年生まれの同い年ですが、役務遂行中は競技長、一歩管制室を出ると山路さん、とお呼びしていましたのでここでも山路さんと呼ばせていただきたいと思います。
山路さんが富士スピードウェイ(以下富士)の管制室に入られたのは、先々代の競技長だった奥州ビクトリーサークルクラブ会長の中村靖比古さんが2010年1月21日に急逝され、その年の競技長を富士職員の岩田さんが務められることとなった際、山路さんが競技長アドバイザーとして競技長を補佐されることになったことがきっかけだと記憶しています。余談ですが、中村靖比古さんも大変お世話になった競技長で、競技運営の采配、人格ともに素晴らしい方であり、大変尊敬させていただいていました。中村さん、山路さんの元で役務に就けたことは私にとって大変幸せでした。
我々富士のコース委員が山路さんと出会ったのは四半世紀前の1990年ごろだったと思います。コース委員仲間の一人が山路さんと知り合いだったこともあり、心の中で応援するようになっていましたが、それが決定的なものになったのは1991年のF3000 Rd.10のサポートレース、フォーミュラミラージュに出走された時のことでしょう。大雨でメインレースは中止となったのですが、サポートレースは競技を行うこととなりました。結果的にフォーミュラミラージュは天候悪化のためレース終盤に赤旗が出されますが、トップでフィニッシュラインを通過したのは山路さんでした。しかし我々は一人次元の異なる速さで走行していた山路さんの黄旗追い越しを見逃していませんでした。車両のスピンや事故などにより走路上に危険な個所があると当該区間では黄旗が提示され追い越し禁止となり、この区間で追越しを行うと違反対象となるのです。結局山路さんはレース終了後間もなく1周減算のペナルティを受けます。相当がっかりされたことでしょう。ところが正式結果も1位のまま変わりませんでした。つまり天候のため赤旗が提示された時点で全車を周回遅れにしていたことになります。レース終了後のパドックで、あるコース委員が黄旗追い越しの報告をしたことについて山路さんに告げると、勝てたからOKと笑って答えたそうです。色々な出来事を通して我々富士のコース委員にとって山路さんは少しだけ特別な存在となりました。決勝レースが終了しチェッカーが振られると、コース委員達はドライバーの健闘を称えて拍手を送るのですが、山路さんの車両が通過するときはひと際身振りを大きく手を振ったものです。我々の監視ポストそこかしこでそんな感じですから、当の本人は不思議だったに違いありません。
1998年5月3日に富士スピードウェイで開催された全日本GT選手権第2戦のローリングラップ中に大規模な事故が発生しました。私はたまたま私事でこのレースをお休みしており、このことを話す資格は全くありませんが、山路さんが真っ先に現場に駆けつけ実施した初期消火・救出活動は、後に競技長となる山路さんの安全に対する考え方を我々が理解する上で、大きな意味を持つ出来事だっただろうと思います。またその翌年であったか、おそらくJanuary Cupか何か寒い季節のレースのことでした。コース委員の朝のミーティングに出席すると山路さん、田中実さんをはじめ数名のドライバーの方々が前に立っておられ、監視ポストに1日入ってコース委員の体験を行うというのです。当時私は1コーナー入口左側の2番ポストの主任を担当していましたが、そこへやってきたのが山路さんでした。初めの内はGTの事故のことを聞かれたりするのだろうかと構えたりもしましたが一切そのようなことはなく、コースの清掃やフラッグの提示の仕方などを長時間熱心に勉強されていました。またインターバル中にはポストの中で体を温めながら、色々と意見交換をさせていただきました。確認したことはありませんが、事故の件を通して我々コース委員やその役務を本当に理解されたかったのだろうと思います。オフィシャルの役務がどんなに大変かということが初めてわかった、と帰り際におっしゃられた山路さんの一言には、日ごろの努力が報われた気持ちとなったことを今でもよく覚えています。
2年間の競技長アドバイザーを経た山路さんは、2012年ついに富士の競技長に就任されます。私はすでにコース委員長を拝命しており、微力でも全力で山路さんを支えていくことについて、何の迷いもありませんでした。多くの古参コース委員も同様の気持ちであったのではないかと思います。来年、2016年に富士は50周年を迎えます。我々は山路さんに見守られながらしっかりと活動を続けていきたいと思います。
この度、このオフィシャルウェブサイト立上げにあたって執筆のご依頼をいただいた際、誠に僭越であるし大いに悩みましたが山路さんと富士のコース委員との関わりを残せるのは今しかない、と考え拙筆の恥をさらすこととしました。なにぶん古い話も多く、記憶違いの点はご容赦いただきたくお願いいたします。
最後に、ウェブサイト制作委員会の皆様、サイト立上げのご準備本当にお疲れ様でした。また、山路さんとの思い出や考えを残す場を提供いただきありがとうございました。このウェブサイトが永く継続し、何かを伝える場として発展されることをお祈り申し上げます。
2015年5月
富士スピードウェイ・コース委員長
松岡 直