Collection of essays – 太田哲也

10616019_597087483733962_2060017710044086595_nお通夜から二週間が経った日、山路慎一選手のご自宅に始めて伺った。奥様の奈穂さんから聞いた。
「山路は、常々『太田さんを助けてしまって本当によかったのかな?』と言っていました。よかったんですよね?今は幸せですよね?」

確かに、あのまま死にたかったと思ったことは一度や二度ではない。けれども一年が経って前に歩き出したら、今まで見えなかった未来が薄っすらだけど見えてきた。そうしたら周囲への感謝の気持ちも沸いてきた。
3年の療養生活を経て、社会復帰した。今では自分が受けた恩を社会に返さなくてはならないと思っている。そしてその気持の中でもっとも大きい存在が山路慎一という男である。

祭壇に飾られた写真の中で山路選手が笑っていた。彼が好きだったという矢沢永吉のCDがずっと流れていた。ちなみに僕も高校時代、永ちゃんには信望していた。
永ちゃんの歌はお経の代わりだそうだ。その帰り道、僕も聴こうと思って永ちゃんのCD四枚組みを買った。一枚目のCDをかけたらその一曲目の歌詞に「幸せなら、いいけれど」と流れてきて、思わず「あっ」と声が出た。山路慎一に言われたような気がしたからだ。
心身ともダメージを受け、ぐらついたときもあったけど、今ははっきりと言える。生きているうちに面と向かってはっきりと伝えておけばよかった。「幸せだよ。山路、気遣い本当にありがとう」。涙が出た。

ずっと山路選手には遠慮する気持があったんだ。存在が大きすぎるのだ。関係が接近したのは2012年、イベント会場でばったり出会ったとき。笑顔で握手した。彼は僕が安全ドライビングレッスンの校長をやっていることを知っていた。「今度一緒に何かやろう」と言葉を交わした。その年の12月、それが現実化した。うちのドライビングレッスンの事務局が、ゲスト講師に「山路さんを呼びませんか?」と提案した。「来てくれるかなあ?」。緊張したが、山路選手は快諾してくれた。
再会は、初恋の人に会うようなドキドキ感と照れくささが混じりあっていた。彼の笑顔はすべてを許容してくれている感じだった。

1994年からGT選手権に出場するまで彼との接点は希薄だった。パドックで言葉を交わしたこともほとんどなかった。
1998年5月3日、暴風雨の富士スピードウェイGT第二戦。炎上している僕のフェラーリを山路慎一選手が差しかかり、一瞬の判断で急制動してマシンから飛び降り、コース脇の消化器を抱えて燃え盛るマシンに近づき、消化剤を噴霧した。
そのひと月ほど前の鈴鹿レースで、僕とはちょっとした因縁があった。S字で接触して、レースアクシデントとは言え僕にはじき出されるカタチでコースアウトしていた。それなのに自分の危険を顧みず、車中から僕を救出した。その彼のスピリットは後に知ることとなる。

僕が校長を務めるドライビングレッスンでは、”injured ZERO”を掲げている。(当スクールに参加する受講生・関係者について、一般道における死亡・負傷事故をゼロとすることを目標とする)。それについて話してほしいとお願いしたら、瞬時に次のような「山路節」を披露してくれた。
「サーキットを全開で走るとき、まわりのライバルに勝ちたいという気持ちは必要だけれど、同時に共に走る者同士、リスペクトしなければならない。お互いリスペクトし合えば接触や事故は起きないんです」
とくに印象的だったのは次のくだりだ。「これは一般道でも同じです。中にはモラルの欠けた運転をする人や自転車を見かけるかもしれないけれど、それを含めて交通社会をリスペクトする。そういう人たちも守ってあげる気持ちをみんなが持てば、交通事故も減るはずです」
傍らで聞いていた僕は衝撃を受けた。周囲をリスペクトする。そういう考えを持っていた彼だからこそ、僕を助けたのだろう。
助けられた人間として、山路スピリットを引き継いで社会に伝播していくことは、第二の人生の使命だと考えている。
太田哲也